25歳を過ぎて、次のライフステージに進むか、このまま独身生活を続けるか。
なんて、真剣に考えるまでもなく、他者との共存はできない気がする。自分から交友関係広げるどころか他者からの好意すら拒んでいる時期もあった。幸運なことに、そんな自分と仲良くしてくれる友人は多くはないけど存在する。でも、時々すべてまっさらにして孤独になりたくなる。そうすると、独身生活1択となるわけだが、やり遂げたいことがあるわけでもない。じゃあ、生き延びる必要はないのではないか。そして26歳の現在、「死」とは何かを考えている。
朝は嫌いだ。「生活」が始まってしまうから。いつからだろう。夜眠る前から次の朝を迎えることがとてつもなく嫌になってしまったのは。ここ最近は、土日休みの土曜の夜の時点で月曜日の朝が来る憂鬱で発狂しそうになる。本当は平日も有休を使って休みたいし、休める環境は整っているのに、非日常から日常に戻る憂鬱さでせっかくの休みが無駄になりそうだから休めない。有給は最大で20日分しか繰り越しできないから、毎年10日くらい有休を捨ててしまっている。仕事が忙しいわけでも、好きなわけでもない。休みが終わるのが怖いのだ。だったら非日常(休み)が来ない方がましだ。
特に25歳を過ぎたあたりから、生きる希望より死を待つ感覚が強くなってきたが、世間一般でいったら25歳なんてまだまだこれからである。人生100年時代でいえば折り返してすらいない。でもなぜか死を待っている自分がいる。しかし、何かから逃げたくて死にたいのではなくて、生きる理由がないだけなのである。今思うと20歳に到達する前から薄っすらこの思考に至っていたのかもしれない。なぜならば、ことあるごとに人生のゴールを決めているからである。
はじめは、20歳を人生のゴールに決めて、悔いのないように生きてきたつもりだ。だが、当然、20歳最後の日までに達成できなかった目標もあり、25歳まで人生のゴールを延長した。その5年間で就職し、実家から脱出する目標も達成し、達成するとは思っていなかった海外旅行に行く夢も叶えた。もう人生に悔いはないが、親より先に死ぬなんて親不孝はできないから、50歳まで延長しようと、建前というか自分に言い聞かせている。言い聞かせているが、結婚する予定もない、キャリアアップも考えていない自分が50歳まで生きる希望を持ち続けられるのだろうか。
私の中で「25歳」という年齢は一つの到達点のようであり、最終到達点でもあったような気がする。それを過ぎた今は「余生」みたいなものである。そしてタイトルに戻る。
長々と書いたが要するに、少しずつ人生のゴールをずらしてまで、いつか死ぬその時まで待つ必要があるのだろうか、ということである。
シェリー・ケーガン著の『「死」とは何か』では、死ぬことは悪ではないが、死んだほうがいい時とは、人生のどん底にいて、今後挽回することがない場合としている。この時点で、どん底にいない自分は条件に当てはまらない。というか、未来なんて不確定なのだから、当てはまる人がそもそもいないわけなのだが。また同書では、死は第三者の目線でしか語ることができないとしている。理論上は死の定義があるが、今のところその判断は第三者にしかできないからである。当然であるが、死んだときに動くのは「誰か」の感情だ。「自分」ではなく。そうなると現在の私が取る選択は一択、自然に死ぬのを待つのみである。
はじめから結論は見えているのに、この思考を巡らせてしまう自分が嫌いだ。











ひろめ市場は今回の旅で唯一酒を飲む日と決めていたので、とりあえず食べて飲んだ。あまりリサーチしてなかったので、一人飲み女に人権ないんじゃないかと思ったけどそんなことはなかった。ちゃんとおひとり様席あってよかった。もしかしたら今はコロナ自粛からあけているから、座れないのかなぁ、、、。初高知だったので、ど定番のカツオのたたき、